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なんごと、「綱場」だけ残ったとですなあ・・・?”
で、 「綱場」のはじまり、はじまり・・・!
「道真公」が長い船旅の後に「袖の港」(後の呼称)附近の入江の船着場から「九州上陸」の第一歩を踏まれたときに、
”あたきゃあ(自分は)くたびれたばい(疲れました)、どっか座るとこはなかなあ(ありませんか)?”
(「菅公」が当時、博多弁をお使いになったかどうかは、定かではありませんが)
とおっしゃり、お迎えに出た地元の人が、
”そんなら、ここにどうぞ”
と差し出したのが、荒縄(綱)で編んだ大きな藁の敷物・縄ざぶとん、「菅公」はその敷物に無事お座りになり、しばしあまたの思いに耽られたとか・・・。この「綱の輪」が「綱輪」町、この場所を後日「綱敷天満宮」としてお奉りし、さらに「綱輪」が後に「綱場(ツナバ)町」へとなったようです。
ただし、今日の「綱場町」は、やはり”境界変更”で、「川端」と同様、元の広さの七〜八倍になって勢力拡大、多分あれもこれも(「川端」には「鏡天満宮」がご鎮座、前述)「天神様」の「ご加護」の賜・・・。
(そういえば、この「綱場」の一角に、もう五十年ちかく他所へ「うつ」らず居座った「鏡屋」があるとかないとか・・・?)
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